熊大精神科医局におられた藤野糺先生が、精神科の教授の推薦状をいただき、水俣市立病院への就職を申し出た際、当時の水俣市長はそれを断ったという話を、藤野先生からうかがったことがあります。この出来事について、原田正純先生も文章で記録を残しておられます。
原田先生の記録によると、水俣市芦北郡医師会の代表が教授を訪ね、「藤野先生の着任をやめさせてほしい」と懇願したといいます。当時、水俣市芦北郡医師会は、水俣診療所が設立されても医師会への加入を許さず、1978年にチッソの加害責任が明確になっても加入を認めませんでした。最終的に加入が認められたのは、1995年に国の責任が明確になり、水俣病の政治的解決が図られたずっと後の2001年のことでした。
※写真:水俣診療所(現在のトヨタカローラのところにありました) 松田寿生さん提供
1970年、水俣病裁判の勝利を目指して水俣に法律事務所を開設した馬奈木昭雄弁護士は、当時の水俣市の雰囲気を「チッソの敵は、水俣市民の敵」と語っています。加害企業チッソが支配する城下町として、経済界だけでなく医師会や政界からも歓迎されない状況がありました。
しかし、患者さんたちは「自分たちの病気を診てくれる医療機関が欲しい」「水俣病被害者として救済されるための診断書を書いてくれる医療機関が欲しい」と願っていました。そんな中、診療所の建設委員会が立ち上がり、その願いを支えた全国の公害反対の世論や全日本民主医療機関連合会などの多くの支援を得て、1974年1月水俣診療所が設立されました。そして、発展し水俣協立病院となりました。
※写真:有床化検討会議の様子 松田寿生さん提供
結果として、藤野先生の水俣市立病院という公立病院への着任は実現しませんでしたが、それが独自の医療機関を開設する運動へとつながりました。この水俣診療所の設立は、水俣病運動の歴史的な突破口となり、現在も続く闘いへの道を切り開きました。
公害被害地において独自の医療機関を設立し、どんな妨害にも屈せず公害被害者を一人残らず発掘し、救済し続ける活動は、世界的にも貴重な教訓といえます。
つづく
次回 半世紀の最大の仕事は水俣病被害者発掘
※写真:水俣協立病院(現在の旧館部分)とチッソ水俣工場 松田寿生さん提供