水俣協立グループは地域のみなさまに支えられ、めでたく50周年を迎えました。50周年企画として元水俣協立病院の事務長をされていた野中重男さんが、水俣協立グループの50年を振り返り、寄稿していただきました。これから数回に分けて掲載していきます。
※写真は熊本地裁、水俣病第3次訴訟提訴の様子。水俣病被害者の会の未認定患者と家族が、チッソ、国、熊本県を相手に国家賠償を求めたものです。
はじめに
私は、かつて水俣協立病院から水俣病被害者の会へ出向し、国と県の加害責任を問い水俣病問題の全面解決を国に迫る運動に参加していました。全国で3000人を超える原告団になり、水俣病全国連が(水俣病被害者・水俣病弁護団全国連絡会)、と支援が裁判所で次々と解決勧告を引き出しました。さらに、いくつもの判決で全面勝訴し、国を追い詰める運動が佳境にさしかかっていたころです。
そんな中、東京のある方から次のような話を聞きました。「国は水俣病の運動をつぶすには、水俣協立病院をつぶせばよいと考え、医療の不正請求や人員などのごまかしがないかなどいろいろ調べたそうだよ。しかし、何も出てこなかった。」とのことでした。これを聞いたとき、私は「国は運動をつぶすために、そんなこんなことまでするのか!」と怒りとともに体が震えました。そして強大な国家権力の怖さを知った思いでした。 同時に、水俣の被害地域で患者を発掘し、救うためにあらゆる努力をし、一切の不正をせず、妨害をはねのけながら、たたかい続けている水俣協立病院を誇らしく、その存在の大きさを再確認しました。このことは、私自身の覚悟を改めて固める契機にもなりました。
私が水俣に来たのは1979年のことです。藤野糺先生は1969年の熊大の精神科医局員時代から水俣病運動に関わり、その後たくさんの方々が水俣診療所と水俣協立病院を支えました。一人ひとりの取り組みが現在の水俣協立病院を築き上げてきました。当時の一緒に頑張ってきた職員のみなさんには、たくさん思い出があります。
次回に続く
【野中重男プロフィール】
1953年天草市新和町生まれ。野中重男(ノナカ シゲオ)さんは、1976年(昭和51年)芳和会に就職、水俣協立病院の事務長として活躍されました。その後、退職後は熊本県水俣市の元市議会議員として、長年にわたり地域社会に貢献されてきた方です。水俣市議会議員選挙で何度も当選し、地域の課題解決に取り組んできました。また、水俣病被害者の救済や環境問題に関する取り組みに力を注いできました。